畠山重忠270(作:菊池道人)

いつしか梅雨が明けたかのような濃い青空を海原が映している。 下河辺行平と結城朝光が稲村ケ崎の浜辺で馬を走らせていた。「少し休ませるか」 行平が言って、二人は馬の脚を止めさせた。「それにしても、武蔵での話は:」 馬から降りながら、朝光が呟く。重…

畠山重忠269(作:菊池道人)

夕方になって、時政が状況確認のために大倉館に遣わした郎党が戻って来た。 長い間蟄居していた稲毛重成が従者を連れて鎌倉に来たので、これは余程の事態が起こったのであろうと、人々が噂したため、とるものもとりあえず、武士たちが集まったのであると言う…

畠山重忠268(作:菊池道人)

久方ぶりの鎌倉である。亡き妻の供養のために相模川に架けられた橋の落慶の帰りに頼朝が病に倒れ、そのことに対する申し訳なさ、というよりは世間の目を気にして、稲毛重成は本拠地の武蔵国稲毛荘(川崎市北部)に蟄居していた。 その重成が北条時政に招かれ…

畠山重忠267(作:菊池道人)

時政は密かに三浦義村を自邸に呼び、二人きりでの会談の席を設けた。 珍しいことである。 義村は義時とは世代的にも近いこともあり、酒を酌み交わしながら語り合うことがよくあったが、その父からわざわざ呼ばれるということはあまりなかった。 一体、どうい…

畠山重忠266(作:菊池道人)

いささか春めいた日差しが菅谷館の厩に差し込む。 齢三十になる三日月がけだるそうな眼差しをしている。馬の寿命は大体、二十数年であるから、長生きである。 今は牧に放たれても、若い馬たちからはぐれて、所在なさそうにしている。隻眼となった鬼栗毛など…

畠山重忠265(作:菊池道人)

正月早々、京の大岡時親から届いた書状を読み終えた時政は、ひとつ肩で息をしてみせる。 書状の内容は、後鳥羽上皇が鎌倉討伐を望んでいて、それを阻止するためには、上皇のお気に入りの朝雅を将軍とするしかないということ。もしそれを実現するならば、朝廷…

畠山重忠264(作:菊池道人)

翌日も続けられた笠懸を終え、汗をぬぐいながら、後鳥羽上皇は、「どうじゃ、京と鎌倉とその方にはどちらが良いかのう」 子供じみた二者択一の質問ではあるが、朝雅にはこれからも長く京に居て欲しいというようにもとれた。そして、近頃、近臣たちが声を潜め…

畠山重忠263(作:菊池道人)

第二十六章 我が心正しければ:。 仁和寺を辞去した時親が夕刻、再度、六角東洞院の朝雅邸を訪ねてみると、屋敷の主は門前まで戻っていた。「お疲れのところを申し訳ござらぬが」 憔悴したような感じのする朝雅に時親がやや遠慮がちな言葉を前置きするが、朝…

畠山重忠262(作:菊池道人)

が、一度は背を向けた静遍は左近を振り返ると、「この琵琶を持っていかれぬか」 「はい」 子供のように素直に左近は答えた。 「これも何かの縁」 と静遍が言いながら手渡す。 左近は母の形見を抱きしめるように受け取った。「ところで、今、拙僧を訪ねて来た…

畠山重忠261(作:菊池道人)

仁和寺に着いた左近は、門前にいた寺男に訳を話し、上覚の添え状を手渡した。 程なく、若い学僧が出てきて、左近を静遍のいる一室へと案内した。 部屋の片隅にやや小型の琵琶がたてかけられているのが目につく。 白象の文様が飾られてあった。「よう来られま…

畠山重忠260(作:菊池道人)

高雄山神護寺の境内。 底冷えのする中、左近は枯葉を踏みしめ、歩いている。 これよりもおよそ一年半前の建仁三年(1203)七月二十一日に亡くなった文覚の墓参りをしてきたところである。 後鳥羽上皇を激しく非難したことで、対馬へ流罪と決まり、その護…

畠山重忠259(作:菊池道人)

本作を初めてご覧になられる方はこちらをhttp://historynovel.hatenablog.com/archive/2014 同じ出来事でも、立場や感情によっては、全く別の受け止め方となる。 名越の北条邸では、重保と平賀朝雅と重保との一件を聞いた牧の方が夫の時政に、「あの畠山の倅…

畠山重忠258(作:菊池道人)

たまりかねた重保は、「お言葉が過ぎませぬか」 「何っ」「ご恩を受けております鎌倉殿をかように悪し様におっしゃるのは如何なものかと」 重保にしてみれば、父から戒められていた手前、辛抱を重ねたつもりであったが、あまりの朝雅の言いぐさにやむにやま…

畠山重忠257(作:菊池道人)

重保は成清の心配や父の言いつけを先ずは理解し、大過なく役目を果たすことを心がけていた。 同じく使者の一行に加わっていた北条政範は、実母の牧の方が重忠のことを悪し様に言っていたからなのであろうが、重保に対して、露骨に嫌そうな態度を見せたりもし…

畠山重忠256(作:菊池道人)

「重保はどうであろうか。十五になったことでもあるし、そろそろ大人の役目もさせてみなければならぬ」 が、成清はやや困惑したような表情である。「如何致したか」「重保どのは真正どのとは違うかとは思いますが」 すでに過去の話となっている件を期せずし…

畠山重忠255(作:菊池道人)

「冷えるようになったな」 秋深まりゆく頃の夕暮れ時である。 鎌倉屋敷の居間で成清と向かい合って座していた重忠は腕を組みながら身を縮めてみせる。 「年が明ければ、俺も四十二歳。随分と年をとったものよ」 成清はにこりとしながら、「何をおっしゃいま…

畠山重忠254(作:菊池道人)

第二十五章 因縁の糸 後鳥羽上皇はいたく機嫌がよい。 伊勢での平家残党の反乱、世にいう「三日平氏の乱」を鎮圧した功により伊勢、伊賀両国の国地頭とし、それに加えて北面の武士さらには院殿上人にまで昇進させた平賀朝雅を側に呼んでである。 朝雅は鎌倉…

畠山重忠253(作:菊池道人)

山内経俊は追討軍に加わったものの、当初の不手際で結果的に反乱の規模を大きくしてしまった。 それゆえに、国地頭を解任されることは避けられない。 浮かぬ思いのままに自邸に引きこもっていた。(どうしていつもこうなのか) 頼朝挙兵を前にして、助力を要…

畠山重忠252(作:菊池道人)

朝雅率いる追討軍が伊勢国に入ってから十日が過ぎたが、軍議を開いたものの、それより先に進撃する様子はなかなか見せない。 反乱軍の前線基地ともいうべき富田の城郭では、その主たる富田基度が斥候を努める識之助から追討軍の様子を聞いていた。「日が経つ…

畠山重忠251(作:菊池道人)

脂ぎった帝王である。 この年、数え二十五歳の後鳥羽上皇は祖父である後白河法皇の野心を受け継いでいるかのようである。 帝位はすでに土御門天皇に譲ってるが、政治への意欲はむしろこれから盛んになっていくようである。加えて、相撲、狩猟などの武芸を好…

畠山重忠の今後の発表方法について

平素は大変お世話になっております。さて、拙作「畠山重忠」、続きの発表が大変遅れておりますこと、心からお詫び申し上げます。 これまでは当ブログでは、掲載先のオリーブニュースのリンクとあらすじを掲載しておりましたが、251回から本文も掲載いたしま…

試験投稿

写真の試験投稿です。

試験投稿2

本日二回目の試験投稿です。

試験投稿

平素はお世話になっております。試験投稿です。

畠山重忠

重忠ら秩父一族の本拠地に勢力拡大をもくろむ北条氏。反発する弟や息子たちに、権勢を巡って争うのは真の武士の道にあらず、と重忠は力説した。 その頃、伊勢や伊賀では平家残党の反乱が起こる。それに加担する識之助に対して、師匠である左近は冷ややかな態…

畠山重忠

比企一族を滅ぼした北条氏は、鎌倉のある相模と北隣の武蔵国を戦略的観点から重要視するようになってきた。在地豪族の重鎮である重忠の存在は? 245 http://www.olivenews.net/news_40/newsdisp.php?n=150290 246 http://www.olivenews.net/news_40/ne…

畠山重忠

頼朝の死後、鎌倉政権は粛清の季節を迎えていた。独裁的な頼家の手法に不満を持つ御家人たちの不満を後ろ盾に北条時政は将軍の舅として権勢を振るう比企能員の排斥を企てる。重忠の苦悩は続く。 239 http://www.olivenews.net/news_40/newsdisp.php?n=150…

畠山重忠

頼朝の死は鎌倉政権内の力関係を大きく変えた。 源氏の家督を継いだ頼家は独自路線を打ちだそうとするが、独裁的な手法は御家人たちの反感を買う。その一方で、北条氏が台頭してきた。「わが子らを護るように」と頼朝から遺言された重忠には苦悩の日々が:。…

畠山重忠

己の来し方の罪深さを告白した重忠に法然は念仏を唱え、ひたすらに仏にすがることの大切さを説いた。源平争乱で焼けた東大寺も再建され、ようやく世相も安定するかと思われた矢先に突然:。 226 http://www.olivenews.net/news_40/newsdisp.php?n=150198 …

畠山重忠

頼朝が征夷大将軍に任じられ、体制固めの時代へ。しかし、熊谷直実が土地を巡る 裁判への不服から出奔するなど、鎌倉政権の未熟さは否めない。 奥州攻めで戦没した将兵の霊を慰めるために永福寺の造営、武蔵国における児玉党と丹党の諍いへの仲裁。重忠も新…