畠山重忠284(作:菊池道人)
やがて日は西に傾いていく。それでも姿を見せない左近に識之助は焦りを感じ始めていた。
日が落ちる頃には、実朝が入る湯殿に火がつけられる。かつての思い人が極悪を為す時が訪れるのだ。
いたたまれなくなった識之助は南の方角すなわち名越邸に向かって足を踏み出した。
と、その時である。
琵琶を担いだ男がこちらに向かって来る。
「師匠」
識之助は駆け寄った。
「遅くなった。申し訳ない」
識之助はいきなり、食いつくように左近の耳に口を寄せて、名越邸での話を伝えた。
「わかった。おぬしは兎に角、あってはならぬ事が起こらぬようにするのだ」
左近が言うなり、識之助は走り出す。
それを見届けた左近は、速足に大倉館に向かった。
薄紅のかかった白い巻貝が功を奏した。
それが幽閉された後白河法皇から平家追討の院宣をもたらす手助けを為した褒美に頼朝から拝領したものであることを門番の武士に伝えた時には、さすがに不審そうな顔をされた。おそらくは、その当時を知らなさそうな若い武士は渋々とした表情で取り次いだが、どうやら政子がそれを夫との思い出の品であることを認めたらしく、すんなりと目通りを許されたのである。
「左近にござります」
一礼して広間に入ると、上座の政子は左手に貝を持ち、右手の人差し指で目の縁をそっと抑えている。
亡き夫のことを思い出し、いささか涙ぐんだようであった。
「いつぞやは身に余るご褒美を賜りながら、頼朝公にはとうとうお目にかからずじまいで、誠に無礼千万、面目ない次第でございます」
が、政子は優し気な声で、
「いいえ。そなたの働きがあってこその頼朝公の偉業、このようなつまらぬ品では却って申し訳ない」
左近は軽く頭を下げた後で、
「実は本日、参上致したのは火急の要件ゆえにでございます。将軍様のお命が危のうございます。時政どのがお命を狙っております。これがその証拠にございます」
すでに用意した書状を政子に差し出した。
政子が開いてみると、平賀朝雅の署名が先ず目につく。本文も間違いなく朝雅の筆跡である。「逆賊源実朝を誅さんと欲す」の文字を見て、政子はわなわなと震えた。
広間の出入り口近くに座していた侍に、
「急ぎ、義時を呼びなさい」
名越邸の湯殿の裏には、薪や藁がびっしりと積まれている。
中からは音がする。実朝が湯に入る音である。
蝋燭に点いた火が揺れている。燭台を手にしている秀子の手が震えているからだ。
今、この薪や藁の山に僅かでも炎の先が触れたならば、たちまちこの湯殿は火に包まれる。
そして、秀子は地頭になれる。
平家没落のためにさすらいの身となった日々。あの頃と比べれば、雲泥の差がある人生が待っている。
誰の目にもつかない今、力も知恵も必要のない、ほんの小さな動作で自分の運命が変わる。
しかし、その代償は:。
が、秀子はこの時は、代償の恐ろしさを乗り越える勇気を持とうとしていた。
その勇気を振り絞り、予定の動作を始めようとしていたその時。
目の前に人が:。
驚きの余りに落としそうになった燭台を辛くも支えた。
「小天狗さん」
小さな声が思わずに出た。
「今やろうとしたことをやめてくれ。やらないでくれ」
小天狗こと識之助は今にも泣きだしそうな声である。
「俺はあなたに非道なことはさせたくない」
が、秀子は言葉に窮している。
「俺はあなたが好きだったんだ。だからやめてくれ。思い出を壊さないでくれ」 (続く)
作:菊池道人 http://www5e.biglobe.ne.jp/~manabi/3.htm
本作はオリーブニュース http://www.olivenews.net/v3/ にも掲載しております。
本作を初めてご覧になられる方はこちらをhttp://historynovel.hatenablog.com/archive/2014