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畠山重忠287(作:菊池道人)<最終回>

 さて、その後の話にもう少しだけ触れて、この物語を結びたいと思う。
 先ず秀子であるが、一時は出世欲に目がくらみ、若い命を奪おうとしたことを懺悔して落飾、さる尼寺に入った。
 識之助は郷里の伊賀服部にて、忍びの術をさらに極めた上で後進を導いていった。伊賀の人々は識之助の技も含め、日本固有、外来を問わずあらゆる技術を集大成して、伊賀流忍術を創り上げた。
 室町時代から戦国期にかけて数多くの伊賀流忍者が大名たちの情報収集、諜報活動などに暗躍したが、徳川家康を助けたことで知られる服部半蔵は識之助が少年時代に仕えていた服部家長の子孫であると伝えられている。
 
 そして、左近のことである。
 重忠の戦没と平賀朝雅事件の数年後、武蔵国荏原郷に社を創り、義時から拝領した重忠の守本尊であった仏像を祀った。
 周囲の村人たちに素性を聞かれれば、重忠ゆかりの者とだけ話し、それ以上は具体的なことに触れなかった。 人々は、おそらくは畠山家郎党であったのであろう、と左近について噂していた。
 件の社は現在は東京都目黒区碑文谷にある碑文谷八幡宮である。
 神社の由緒には、畠山重忠の家臣、宮野左近という者がこの地に創建したと伝わっている。
 
非情なる時の流れにも触れなければならない。
 重忠とともに鎌倉政権創業の功臣であった和田義盛も北条氏に粛清された。
 三代将軍実朝は鶴岡八幡宮にて頼家の遺児すなわち甥の公暁に暗殺された。その公暁も三浦義村に討たれた。
 朝廷への政権奪還を目指して兵を挙げるも鎌倉方に敗れた後鳥羽上皇隠岐に流された承久の乱の少し後のことであるが、左近は重忠最期の地、鶴ヶ峰を訪れた。
 すでに十六年の歳月が流れ、もはやあの日のことは忘れられたかのように静かな川の畔。
 真っすぐに伸びた竹が生えていた。このまま天まで届いても、真っすぐなままであるかのようだ。
「まるであの男のようだ」
左近は一人呟いた。そして、意を決した。
(この近くを終の棲家としよう)
すでに齢六十半ばを過ぎた左近はさすがに足の衰えを痛感し、旅に生きることはもう無理だと悟っていた。
 やがて、重忠最期の地に程近い丘に庵を結んだ左近は、仁和寺で静遍からもらった母親ゆかりの琵琶を弾きながら、近隣の村人たちに物語を聞かせてやった。
 老若男女を問わずに好評を博し、生活の糧となる米や野菜などを恵んでくれる人もいたが、この時期から世間に流行りだした琵琶法師による「平曲」もしくは「平家物語」と呼ばれる話が、栄華を誇った平家がやがて滅亡するまでを描いていたのとはいささか異なった話をしていた。
 左近のお決まりは、伊勢三郎の悪党話に義経が平泉から蝦夷ヶ島さらには粛真(ロシア極東)へ渡った話、そして畠山重忠のことである。
 ある人が左近の話を聞き取り、それも参考にして書物にしたという。
 題して「畠山物語」。
 現在、この書の存在を指摘する史家はいるが、現物が確認されたという話を筆者は知らないので、もしご存知の方がいらっしゃればご教示頂きたい。
また、その聞き取りが行われた庵のある場所の地名は現在では横浜市旭区左近山となっているが、件の語り部との関連を示唆するような伝承の類も聞いたことがないので、取りあえずは単なる偶然ということにしておこう。
ただ、左近が、重忠のようだ、と呟いたその竹は今も残っている。
 重忠がその最期に矢を立て、「我が心正しければ、この矢に枝葉を生じ繁茂せよ」と言い残したという話も伝わっている。
風にそよぎながらも、その竹は心ある人々に伝え続けている。
 畠山重忠の心を:。(完)

作:菊池道人 http://www5e.biglobe.ne.jp/~manabi/3.htm

本作はオリーブニュース http://www.olivenews.net/v3/ にも掲載しております。

本作を初めてご覧になられる方はこちらをhttp://historynovel.hatenablog.com/archive/2014

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