畠山重忠279(作:菊池道人)
翌二十三日の未の刻(午後二時頃)に鎌倉に戻った義時は、関戸から引き上げて来た三浦義村とともに、大倉館にて、時政に前日の重忠討伐を報告した。
重忠主従は僅か百数十人であったこと、味方は一万を超える大軍であったにもかかわらず、午の刻(正午前後)に始まった戦いが申の刻も終わろうする頃(午後五時)までかかってしまったのは、多くの者たちが重忠は無実ではないかと思ったことによる戦意の低下が原因ではないかと付け加えた。
「父上、それなりの覚悟がおありでしょうな」
温厚な義時には珍しく、かなりきつい調子である。
時政は唇を噛みながら、無言のうちに少し下を向いた。我が子の問いに、肯定の返事をしたつもりなのか、それとも悔いているのかはわかりかねる。
義時はそれ以上は言葉を継がずに、父を睨みつけていた。
傍らで黙していた義村は、
「それがしはいささか用がございますので、本日はこれにて」
と退出した。
後の話であるが、義村は北条に反旗を翻した従兄の和田義盛を裏切ったことから、千葉胤綱から「三浦の犬は友を食らう也」と言われたことが「古今著聞集」に書かれている。
身の危険を感じれば、道義という足かせを簡単にかなぐり捨ててしまうのがこの人物の特徴である。
重忠が無実であることがわかれば、自分が陰謀に加担していたことがやがて明らかになるであろう。
それはおそらく同じく謀議に加わっていた稲毛重成の口から出るに相違ない。
重成に自分とよく似た性格を見出している。
義村は郎党の大河戸行元と宇佐美祐村を呼び寄せると、耳打ちした。
戦勝の宴を催したいと義村の使者が来たので、重成は弟の榛谷重朝と子息の重政、甥の重季、秀重を連れて、経師谷口(材木座近く)に出かけた。
酉の刻(午後六時頃)のことである。
が、当の義村の姿が見えない。あたりを見回している重成の前に、いきなり大河戸行元が現れた。
「讒言で人を陥れる不埒者め」
行元はいきなり重成の脇腹を刺す。父の悲鳴に驚いて、駆けつけて来た重政に今度は横合いから宇佐美祐村が斬りつける。
稲毛父子がたちどころに殺されたのを見て、榛谷父子は逃げようとするが、三浦の郎党たちが行く手を阻み、三人とも斬り伏せられてしまった。
全て重成の讒言によるものであることがわかったので、義村が成敗した、と事後に公表された。
重忠誅殺の件をほとんど重成の単独犯として闇に葬ろうとしていたのである。
鶴ヶ峰の戦場で重傷を負った重秀は父の重忠の死を知ると、その場で自害した。本田近常、柏原太郎ら主だった郎党たちもことごとく討たれた。
菅谷館でも妻の徳子が夫と我が子を同時に失ったことを悲嘆して自ら命を絶った。
重忠の母は菅谷に残っていた郎党たちに背負われ、重清のいる信濃へと逃れた。
なお、もう一人の妻房子は後に足利義純に再嫁し、義純が畠山の名跡を継ぐことになる。
重忠の遺領は勲功のあった者にあてがわれた。
その事務処理は北条政子が取り仕切ったのである。 (続く)
作:菊池道人 http://www5e.biglobe.ne.jp/~manabi/3.htm
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