畠山重忠261(作:菊池道人)

 仁和寺に着いた左近は、門前にいた寺男に訳を話し、上覚の添え状を手渡した。
 程なく、若い学僧が出てきて、左近を静遍のいる一室へと案内した。
 部屋の片隅にやや小型の琵琶がたてかけられているのが目につく。
 白象の文様が飾られてあった。
「よう来られましたな」
年の頃は四十くらい。気さくな感じのする僧侶である。
 上覚からの書状に再度目を通しながら、
「我が父と昵懇であった炎丸という商人の子息であるとか:」
「いかにも」
「貴殿の父上のことですが、話せばいささか話が長くなりますが:。そこに琵琶があるでしょう。あれは炎丸の娘、貴殿には腹違いの妹御からもらったものです」
静遍は少し上を向いて、目を閉じ、言葉を選んでいる様子であったが、
「出家の身となった今は、俗世での私事など申しても詮無いことですが、拙僧はまだ十三、四の頃、父に仕えていたその娘と恋仲になり、炎丸の形見であったこの琵琶をもらったのです」
のろけ話には似合わぬ渋い顔である。
「鹿ヶ谷の一件の少し後であったか、拙僧が三条の河原で一人琵琶を奏でていると、傀儡子女らしき女性が近づいてきて、その琵琶は誰からもらったのか尋ねて来ました。拙僧は正直に、今は亡き炎丸という商人の形見と答えました。するとその女性は泣き出してしまったのです。そして、どのように炎丸は死んだかと尋ねて来たのです。拙僧はその娘から聞いていた通りを話しました」
「その女性は左目の下にほくろはありましたか」
 左近は自分の母親の容貌の特徴を話す。すると、静遍は、
「そういえば:」
 その印象が記憶にあるようだ。母親に相違ない、と左近は認めた。
 静遍もその通りと察した上で、
「炎丸はしばしばその琵琶を女性に弾いて聞かせてやったということでした。その女性が余り嘆き悲しむので、拙僧はたまらずに、その琵琶を譲ってやりました」
その後、静遍は益々苦しそうな表情になる。
 左近は胸騒ぎがした。それならば、譲ったはずの琵琶がなぜここにあるのか。
 静遍は一つ肩で息をしてから、
「それから半年程して、太宰府へ使いに行っていた郎党が琵琶を持ち帰ってきました。湊に浮かんでいたというのです。身投げした者がいて、その者が持っていたものらしいということでした」
左近は身が凍りつくような思いがした。
 母は炎丸のことが忘れられずに、後を追ったに相違ない。
 つまりは身を売って利益を得るためのみでなく、心底愛情を抱いていたということなのだ。
 数えきれぬ程の男の夜伽をした母が真の恋愛感情を抱いた男。それが左近の父である炎丸であった。
そして、左近はその愛情ゆえの子であったのだ。
天地もひっくり返る程の衝撃である。
 恵を施す男ならば誰構わずに身を任せていた母。その母に反発して縁を切り、悪事の限りを尽くし、法皇の謀略の手助けもした。
そうした日々は一体何であったのか。
 母の心などまるでわからない、知ろうともしないあの日々。
 自分の人生の無意味さに戦慄した。
 いつしか左近の両の目から涙がこぼれ落ちていた。
「それがしが側にいれば、母にはあのようなことは:」
絞り出すような声を出すのが精一杯である。
 懸命に気持ちを抑えるかのように語っていた静遍はいたわるような眼差しで、
「左近どの。これも因縁です。そして、その因縁の中に貴殿も生きていることに今、気づいたのです」
そこへ
「申し上げます」
という声。
 静遍は立ち上がると、廊下へ出る。先ほど左近を案内した学僧が耳打ちすると、
「承知した」
と短く答え、部屋に戻ると、
「左近どの。生憎だが、来客です。また、いつでも遠慮無くここを訪ねなされ」
(続く)

作:菊池道人 http://www5e.biglobe.ne.jp/~manabi/3.htm

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畠山重忠260(作:菊池道人)

高雄神護寺の境内。
底冷えのする中、左近は枯葉を踏みしめ、歩いている。
 これよりもおよそ一年半前の建仁三年(1203)七月二十一日に亡くなった文覚の墓参りをしてきたところである。
 後鳥羽上皇を激しく非難したことで、対馬へ流罪と決まり、その護送の最中、鎮西にて不羈奔放なる生涯を終えた。
左近とは袖すりあわせる程度といってもよいくらいの縁であった。その死を知った時は、特に感慨もなかったが、愛弟子の識之助とは袂を分かち、一人になってみると、奇妙に懐かしい気がする。
今生にて語り合うことは叶わなくなってしまったが、せめて墓参だけでもと思い立ったのである。
腕組みをし、冷たい風に身を縮めながら歩く左近は、年の頃は六十に届くか届かぬかくらいの僧侶とすれ違った。
 双方、視線が会い、どちらからともなく、黙礼を交わした。
「もし」
突然の僧侶の声に左近は振り返る。
「これを落とされましたぞ」
僧侶が手にしているのは貝殻。福原に幽閉されていた後白河法皇からの院宣をもたらした礼にと、頼朝が文覚に託して、左近に賜ったものである。腰にぶら下げている袋に入れていたのだが、いつの間にか、袋の口を締める紐が緩んでいたのであった。
「これは忝ない」
左近は礼を言うが、僧侶はしげしげと左近の手に戻した貝殻を眺めている。
「もしや、貴殿は傀儡子の左近どのでは:」

僧侶の名は上覚。文覚の弟子である。年齢は師よりも八歳下である。。
師ともども、和気清麻呂が開き、弘法大師こと空海とも縁深い神護寺の再建に尽力していた。師に連座する形で鎮西まで護送されたが、文覚の最期を看取った後、赦されて帰洛していた。
上覚は左近の貝殻にまつわる経緯を聞いていた。
これも何かの縁と墓参の礼も兼ね、左近を僧坊にもてなした。いまだ再建途上の寺であることをうかがわせる、俄仕立ての小さな僧房ではあるが:。
 後白河法皇の耳目の役割を果たしていたことはすでに目の前の上覚に知られている。
左近は隠し立てすることは何もないと覚り、それまで背負っていた荷を下ろしたかのように心が軽くなり、かえって正直に自身について語ることが出来るような気がしてきた。
本来の自分をさらけ出せる機会というものは、これまでの左近の人生では珍しい。強いていえば、伊勢三郎と出会ったばかりの頃くらいか。それでも、法皇の耳目の役割を務めるようになってからは、三郎にすら全てを話すことはなかった。
 重忠に対するに至っては、自身のほんの一部しか見せていない。
「それがしの父は炎丸という商人で、頼盛どのと昵懇でしたが:」
宋へ向かう途中、海に消えた父の話もしてみた。すると、上覚は、
「しからば、頼盛どののご三男に会われては如何なものか。何か知っておられるやもしれぬ。今は仁和寺におられる。静遍どのという方じゃ」
頼盛の三男は若くして出家して、真言密教を学び、はじめは醍醐寺に入り、座主の勝賢から小野流、さらには仁和寺で仁隆から広沢流を受法していた(小野、広沢とも真言宗の流派)。
「拙僧ももとは平家の武者。今は静遍ともども弘法大師を師と仰ぐ身。早速、添え状をしたためてみよう」
上覚の父である湯浅宗重は、平治元年、清盛が熊野詣でに出かけた留守に義朝が挙兵すると、手勢を率いて平家に加勢した。
その時、十三歳であった上覚もその軍勢に加わっていたのであった。(続く)

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畠山重忠259(作:菊池道人)

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同じ出来事でも、立場や感情によっては、全く別の受け止め方となる。
名越の北条邸では、重保と平賀朝雅と重保との一件を聞いた牧の方が夫の時政に、
「あの畠山の倅が:。親も親ですが」
「今回の件は重忠どのは関係ないではないか」
理由もなく重忠を嫌うこの妻には、時政もまたかという思いであるが、件の口論の翌日に、牧が産んだ子である政範が亡くなっている。そこへお気に入りの婿である朝雅の件が聞こえてきた。
 牧の不機嫌は頂点に達していた。
「大体、実朝どのの我が儘が原因なのです」
「これ、言葉に気をつけよ」
時政が叱りつけるが、牧は目に涙を浮かべながら、
「いいえ、ご内室は都から迎えるということにならなければ、政範が無理な長旅などして、病に倒れるようなことはなかったはずです。あの御方は何でも都風を好まれておられますが、武家の棟梁としての気構えを忘れてはいないか:。朝雅どのの言う通りではありませぬか」
確かに、実朝が武芸などには余り熱心ではないことには思い当たる節もあり、時政もいずれ諫言すべきかとは思っていた。
「わしから実朝どのに折を見て申し上げる」
その場を何とか収めようとしている時政であるが、牧は、
「そもそも、征夷大将軍というものは、帝に成り代わり、朝敵を成敗するのがお役目。最も武勇に長けた方がその任に就かれることが筋ではございませぬか」
「その通りじゃが」
時政は面倒くさそうに同調する。
「今、それにふさわしい御方といえば、先頃、伊勢で平家の残党を鎮圧された朝雅どのではございませぬか」
「口を慎まぬか。今の将軍家は実朝どのであるぞ」
時政は声を荒げる。牧は一つため息をつくと、
「朝雅どのも清和源氏。それに時政どのは朝雅どのの舅であることもお忘れなく」
そう言い置くと、そそくさと退出した。
「ふん。くだらぬことを:」
時政は表面は呆れたようであるが、牧の話には引っかかるものを感じていた。

数日後、時政は牧の実兄である大岡時親を名越邸に呼び寄せた。
 雑談風に先日の牧の話を耳に入れ、
「何ともたわけた話だが」
が、時親はたわけた話では終わらせたくない時政の本心を察している。
「しかし、朝雅どのが清和源氏の血筋であり、時政どのがその朝雅どのの舅であるということは紛れもない事実でありますな」
時政の期待していた通りの時親の反応である。大変利口である上に、弁も立つ。
しかも、頼盛の家人であったことから、都にも人脈を持つ。
 朝雅とも親しい。
「朝雅どのにそのご意志があるか否か次第でありますな」
仮に朝雅が将軍となれば、実朝の生母である政子の発言力は低下し、その分だけ自分と牧の方の政権への影響力が増す。娘である政子の政権内での態度も居丈高で鼻につくように感じてきてもいる時政の胸の鼓動は時親の言葉で高鳴った。
慎重なようで、時と場合によっては、大博打に出ることがある。
 三浦義澄が重忠に言っていたような時政の性格がまたしても、表に出ようとしていた。
「それでは早速、都に上ることに致しましょうか」
時親の申し出は、時政の意に叶うものである。
 その三日後、時親は旅立つ。
 親しい者たちには、病気療養のために故郷の大岡牧に帰る、と言い置いてである。
(続く)

作:菊池道人 http://www5e.biglobe.ne.jp/~manabi/3.htm

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畠山重忠258(作:菊池道人)

 たまりかねた重保は、
「お言葉が過ぎませぬか」
「何っ」
「ご恩を受けております鎌倉殿をかように悪し様におっしゃるのは如何なものかと」
重保にしてみれば、父から戒められていた手前、辛抱を重ねたつもりであったが、あまりの朝雅の言いぐさにやむにやまれぬ思いになっていた。若さ故に、言い方もきつい調子となっていた。
 年下の者の思わぬ反論に、朝雅は逆上する。
「口のきき方に気をつけぬか」
重保も引っ込みがつかず、
「いいえ、京都守護であり、殿上人であらせられる御方こそ、お立場をわきまえ下され。それに実朝どのは京と鎌倉との和合を願われてこそ、都からの輿入れをお望みなのではござりませぬか。それをお察し申し上げずに:」
和やかな宴が青天の霹靂ともいうように俄に険悪な雰囲気となった。
使者一行の中では、中心的な結城朝光が、
「お二方とも控えなされ」
と両者の間に割って入る。
「このようなこと外に聞かれたならば、どのようなことになるか。お考えなされ」
朝光は以前に、「二君にまみえず」と発言したことから疑いをかけられ、大きな騒動となった苦い経験がある。 朝雅も重保もその朝光が割って入ったことで我に返った。
 結局、それ以上の大事に至らず、その場は収まった。
 ただ、悪いことに、その翌日、宿所で療養していた北条政範が亡くなった。
 そのことによって、尾を引くような事態となるのだが:。

 十二月十日、坊門信清の娘は無事、鎌倉に到着し、実朝との婚礼の儀を挙げた。
 役目を終えた重保は、早速、父に先般の事の次第を報告した。
 すでに耳に入れていた重忠は一通り我が子の話を聞いた後で、
「そなたが己のことではなく、鎌倉殿への辱めに怒ったのはようわかった。主に仕える者としては、酒席でのこととはいえ、黙してはいられなかったのであろう」
抑えた調子で、さらに続ける。
「しかし、上に立つ人というものは、いらぬ誹りなど意に介さぬものなのだ。実朝どのとて、そうなるべく己を律しておられるはず。そなたは忠義のつもりでおるようだが、余計な諍いなど起こしては、却って鎌倉殿の御ためにはならぬ。今後はつまらぬ誹りなど捨て置くが良い」
重保はややうなだれながら、
「以後は慎むように致します」
と答えた。
 「吾妻鏡」などには、朝雅と重保との口論の具体的内容には触れていない。
 しかし:。 (続く)


作:菊池道人 http://www5e.biglobe.ne.jp/~manabi/3.htm

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畠山重忠257(作:菊池道人)

 重保は成清の心配や父の言いつけを先ずは理解し、大過なく役目を果たすことを心がけていた。
 同じく使者の一行に加わっていた北条政範は、実母の牧の方が重忠のことを悪し様に言っていたからなのであろうが、重保に対して、露骨に嫌そうな態度を見せたりもしていたが、それに対しては努めて気にしないようにしていた。その政範は尾張に着いた頃から、頭痛などの体調不良を訴えるようになっていたが:。
 ともかくも、一行は十一月三日に京に着いた。
 この日は、土御門天皇石清水八幡宮への行幸のために、殿上人たちは多忙を極めていたので、坊門屋敷への訪問は翌四日となる。
 病気のために宿所で静養の政範を除く使者一行は前大納言である信清とその娘に面会した。
「遙々と大儀であるぞ」
「お言葉忝なく」
 列座する一行の代表格である結城朝光が挨拶すると、重保はそれに習って深々と頭を垂れる。
「これを機に京と鎌倉が末永く和し、太平の世となることを信清願うと、実朝どのに伝えられよ」
「かしこまって候」
朝光も重保らも再度、礼をした。
 目の前の信清が薄化粧をし、歯を黒く染めているのは、見慣れぬ風習のせいか奇異にも感じられたが、その傍らに座す娘は上品な風情を湛えていて、美しい。
 重保は実朝がうらやましくも思えていた。
 かくして初日の役目はつつがなく終えたが:。

 その夜は、六角東洞院京都市中京区)の平賀朝雅邸で慰労の宴が催された。
 亭主の朝雅は先ずは一行を労い、会は和やかに始まった。
 しかし、朝雅は自身にとっては義弟に当たる政範が病に倒れたことを聞くと、
「おそらくは長旅で疲れたのであろう」
そこまでならば大事にはならなかったが、傍らに酒を注ぎに来た重保に向かい、
「その方らにこのような長旅をさせるとは:」
かなり酔いが回っているようだ。
「そもそも、当初は足利どのの娘をお迎えするという話ではないか。それを都の女性でなくてはならぬとは:」
明らかな実朝批判である。
「和歌ばかり詠われて、武芸には見向きもされぬ。上皇様ですら武芸の鍛錬に励まれるというのに、武家の棟梁ともあろう御方が」
余りにも露骨な物言いに重保は唖然としている。
征夷大将軍とはどのような字を書くか。夷を征するというではないか」
公家出身の形だけの将軍が誕生するのは、これよりも少し後のことである。この時期は、将軍といえば、文字通り、先陣に於いて指揮をとる役目という印象が強かった。
 それに加えて、朝雅は後鳥羽上皇から平家残党の反乱を鎮圧した汝こそが征夷大将軍にふさわしいということも言われている。
 上皇自身は冗談のつもりだと言っていたが、朝雅には本気にもとれていた。
 当初は戸惑いもあったが、日が経つにつれて、実朝が単に頼朝の実子というだけで将軍になるということに合点のいかぬ思いを持ち始めていたのであった。
 実朝と同じ清和源氏という血筋に対する自負もそれに拍車をかける。
朝雅は重保に近寄ると、肩を叩きながら、
「どうだ。そなたも坂東武者として、あのような女々しき御方を棟梁と仰ぐのは情けなくはないのか」
常軌を逸した言い方に重保は不快感を感じたが、何とか聞き流そうと努めた。
尿意を口実に席を外そうと思いついたが、
「どうじゃ、そうは思わぬか」
朝雅は執拗に同調を求めて来た。 (続く)

作:菊池道人 http://www5e.biglobe.ne.jp/~manabi/3.htm

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畠山重忠256(作:菊池道人)

「重保はどうであろうか。十五になったことでもあるし、そろそろ大人の役目もさせてみなければならぬ」
が、成清はやや困惑したような表情である。
「如何致したか」
「重保どのは真正どのとは違うかとは思いますが」
 すでに過去の話となっている件を期せずして成清は蒸し返す。直情径行な真正は感情的になって我を張ることがままあり、それがために任地である沼田御厨で諍いを起こした。
 額に傷を負わせた伊勢三郎への恨みが根底にあり、御厨の事実上の領主であった員部家綱と三郎とのつながりを口実としてのことであった。
 どうしても私怨が先行しがちであったことは否めない。
 それに比べて重保は個人的な感情よりも物事の筋道に頭を巡らす方だが、それがゆえに理屈に合わないことへは激しく反発する。父や兄たちにも遠慮なく物を言うこともある。そうした性格が周囲と摩擦を生じさせないかという危惧もなくはない。
 成清が言うように、内面的なものこそ違え、外形的な不安には共通するもがある。
 「真っ直ぐな気性の御方ゆえ、それが仇になるようなことはないかと」
真正を推挙したことが、結果的に重忠を諍いに巻き込む形となった。成清はそうしたことへの反省からやむにやまれずに懸念を述べていることも重忠は理解していたが、
「確かに、重保は腹の底を隠しきれぬところはある。だが、獅子は我が子を谷に突き落とすというように、重保にも試練を与えてみようかと思うのだ。あ奴にとっては息苦しい役目かもしれぬが、己の身を慎む機会もなければいつまで経っても同じままだ。真正の時は、俺が伝える言葉が足りなかったと思う。今度は、じっくり言って聞かせてみようかと思うのだ」
成清は傍らの近常の方に目をやる。近常は、
「そこまで殿が腹を据えていらっしゃるなら、その思いを重保どのにお伝えなされ」

京への出発を前にした重保を重忠は呼び寄せた。
血の気の多さが仇にならぬかと成清も案じていたことも伝えた上で、
「良いか。それでもそなたを京に行かせるのは、鎌倉や武蔵とは違う場というものをそなたに見せたいからだ。そなたは思ったままを言葉にするが、京の人々というものは、はっきりとは言葉にせずに、聞く者がその意を察するような言い回しをする。そうした所もあるのだ。それを学ばせたいからだ」
「わかりました。この重保、身を慎み、つつがなくお役目を果たす所存です」
凛とした我が子の声に重忠は先ずは安堵した。そして、こうも付け加える。
「実朝どのは御家人たちの勧めよりも自らのご意志でご内室をお決めになられた。一見、優しげな風情ではあるが、気丈な御方でいらっしゃる。そなたたち若い者は、しっかりと実朝どのを支えていくのだ」
「はい」
重保は爽やかに返事をした。
「色々と不安な事も多いと思うが、困った時には、結城朝光どのに相談するがよい」
かつて謀反の疑いをかけられた時に真っ先に弁護してくれた朝光が共に上洛することが重忠にとっては安心材料であった。

前大納言の坊門信清の娘を実朝の正室として迎える使者として選ばれたのは、この他に、北条時政の子である政範、千葉常秀、八田知尚、和田宗実、土肥惟平、葛西十郎、佐原景連、多々良明良、長井時秀、宇佐美祐茂、佐々木盛季、南条平次、安西四郎らである。
 一行は元久元年(1204)十月十四日に鎌倉を出立した。 (続く)

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畠山重忠255(作:菊池道人)

「冷えるようになったな」
秋深まりゆく頃の夕暮れ時である。
 鎌倉屋敷の居間で成清と向かい合って座していた重忠は腕を組みながら身を縮めてみせる。
「年が明ければ、俺も四十二歳。随分と年をとったものよ」
成清はにこりとしながら、
「何をおっしゃいますか。まだ四十を少し越えたばかりではありませぬか」
「いや、年月の長さだけではない。こう色々な事が変わり過ぎると、急に年をとった気にもなるものだ」
頼朝の死から数年の間、その後継の将軍も頼家からまだ十三歳の実朝へとめまぐるしく代替わりした。それも血生臭い政争がらみである。
 変転の激しさに思いを馳せる重忠である。
「今の鎌倉殿は大変優しげな御方でいらっしゃいますね」
成清が言うように、実朝は武芸よりも和歌などを好んでいる。
「そうだのう。まだお若いので、変わられることもなきにしもあらずだが、一番上に立つ御方は穏やかであるのがよいかもしれぬ」
性格的に激しかった頼家の代は争いが絶えなかった。
 対照的に穏やか過ぎる弟の実朝であるが、それだからこそ、安らかな世となることを重忠は期待している。
「それにしてもご内室に都の姫君とは」
成清の言う都の姫君とは坊門信清の娘のことである。当初、実朝の妻には鎌倉御家人の足利義兼の娘をという声があったが、実朝自身が京都の公家との縁組みを強く望んでいたのであった。
「おそらくは、朝廷とも和して行かれるとのご存念かと思いますが」
成清の言うように、実朝自身は朝廷に対して協調的な姿勢を志向しているかのようである。
 東国の豪族たちには、朝廷からの呪縛から解き放れたいとの強い願望があった。
 初代の頼朝は、それを巧みに吸い上げつつも、時に応じて朝廷と妥協もしていた。
実朝は協調路線をさらに進めようとの心づもりなのか。
「まだお若いのに、ご内室についてはご自身の希望をはっきりとお口にされるとは気丈なことではないか。それに坂東人の心意気とてお忘れではないはずだぞ。将門の合戦の絵をご所望のようだというではないか」
重忠が言うように、実朝は坂東独立政権の先駆者ともいうべき平将門にも興味を持ち、その絵を京都の絵師に依頼している。
「都の雅と東国の剛毅。この二つを兼ねあわせた政を望んでおられるやもしれぬ」
そこへ、
「申し上げます」
「おう、近常か。入れ」
本田近常が入ってきた。
「先程、結城どのの郎党とたまたま会って話を聞いたのですが、近々、都から将軍家ご内室をお迎え申し上げるに当たり朝光どのが使者のお役目を仰せつかり、畠山どのからも然るべき御方をとの話であるとのことですが」
「そうか。それでは考えねばならぬな」
重忠は人選に思いを巡らす。
子供たちも大きくなっていることも念頭に浮かんできた。 (続く)


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