畠山重忠268(作:菊池道人)

 久方ぶりの鎌倉である。亡き妻の供養のために相模川に架けられた橋の落慶の帰りに頼朝が病に倒れ、そのことに対する申し訳なさ、というよりは世間の目を気にして、稲毛重成は本拠地の武蔵国稲毛荘(川崎市北部)に蟄居していた。
 その重成が北条時政に招かれて、不意に鎌倉を訪れた。元久二年(1205)四月十一日のことである。
「初夏の海風というものは心地良いものですな」
名越邸の時政の前で愛想良く笑みを浮かべてみせる重成であるが、何ゆえに招かれたのか、その理由が皆目見当がつかずに内心では不安である。
「この時政も婿の朝雅どのが上洛し、武蔵の留守を預かるようになって、一度、貴殿にも声をかけねばならぬと思うておりましてな」
この言葉は重成を喜ばせた。武蔵の要である従兄の重忠はどうも虫が好かない。生真面目なところがとっつきにくくも感じられていた。それゆえ、重忠の指揮に従っての公務も気が進まなかった。
 ところが、亡き妻の父である時政が武蔵を掌握することで、何か自分にも良いことがあるような気もしてくる。
 そこへ、
「申し上げます。三浦義村どのがお見えになられました」
との郎党の声。
 時政はにこりとして、
「実は重成どのにも引き合わせようと思っていたのじゃ」

重成と義村の縁は平家との富士川合戦に遡る。
 重成の今は亡き父である小山田有重は平家軍にいたが、たとえ父が敵にあれども、頼朝に味方することこそが大義と心得ているのは、三浦一族がその惣領である義明の仇、重忠を許したことと同様である、と重成は啖呵を切った。
「あの折の貴殿の言、痛み入る。改めて礼を申す」
義村は頭を下げた後で、
「あの頃は貴殿が申された通りであった。つまり討つべきか討たざるべきかは大義に叶うか否かで決めるべきものであるが、亡父の仇といえども討たざることが大義に沿うていたのだ。あの頃はだ」
義村はそれが過去に於いてであることを強調している。今は事情が違って来ているのか、と重成は察知した。
「どうであろうかのう。重成どの」
義村は薄っすらと笑みを浮かべながら、
「謀反の風聞あるは武士の誉れなどと言う者をそのままにしておくことが大義といえるのかのう」
義村の目つきが鋭くなったのを感じた重成は思わず時政の方に視線を移す。時政も無言のままだが厳し気な表情である。
富士川の折の貴殿の言が真であるならば、不穏なる言葉を吐く者は例え同族であるといえども、という覚悟は:」
義村はたたみかける。
 重成は富士川の東岸で義村の軍勢から殺気を感じたことを思い出した。平家軍に対してというよりは、義明の仇であるはずの秩父一族に向けているようにも思えた。
 それゆえに、重成は機転を利かせて、義村のもとへ陣中見舞いに参上したのである。
 その時の殺気が今、蘇ろうとしているのだ。あの時の怨念を晴らそうとしているのだ。
 重成は流れを覚ると、それに乗っていくような性格である。同族とはいえ、仲の良くない重忠を討つことにためらいはほとんどなかった。
「この重成も大義に殉ずることは義村どのと同様かと」
そう答えた時である。先程、義村の来訪を知らせた郎党が、
「申し上げます。大倉館に御家人の方々が武具を携えて、集い始めたとの由にございます」
「何っ」
時政がすっくと立ちあがった。 (続く)

作:菊池道人 http://www5e.biglobe.ne.jp/~manabi/3.htm

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畠山重忠267(作:菊池道人)

 時政は密かに三浦義村を自邸に呼び、二人きりでの会談の席を設けた。
 珍しいことである。
 義村は義時とは世代的にも近いこともあり、酒を酌み交わしながら語り合うことがよくあったが、その父からわざわざ呼ばれるということはあまりなかった。
 一体、どういうつもりなのか、とその意を探り兼ねている義村に時政は、
「こうして貴殿を見ていると、義明どののことを思い出すのう。どこか面影が似ておられる」
頼朝挙兵時にその命を散らした義村の祖父の話を持ち出した。そして、どうやらその話を続けたいようである。「誠に惜しい方であったが、貴殿らもよう耐え難き事を耐え忍んだものよのう」
「いえ、これとても、大義ゆえでござる」
「なる程のう」
時政は深くうなずくと、
「しかし、頼朝公も義澄どのももはやこの世にはいらっしゃらぬ」
時の流れへの感慨なのか、それとも別の意図があってのことなのか。
 しばしの沈黙の後に、
「あの頃とは、いささか事情も異なってきているが」
ほろ酔い加減の目をぎらりとさせながら、時政は身を乗り出してくる。
「貴殿もわしも流人時代からの頼朝公を支えてきた。しかし、そうした者ばかりではない。今は頼朝公もいらっしゃらず、実朝公はまだお若い。それゆえ、災いのもとは摘んで置かねばなるまい」
「災いのもととは?」
「謀反の噂あるは武士の誉れなどと言い放つような者をこの相模と北隣にそのままにしておくのは如何なものかのう」
「畠山どののことでござるか」
驚いた表情の義村に時政は無言でうなずいてみせた。
父義澄にも諭され、義村は私情を捨てた。しかし、幼少の頃から可愛がってもらった祖父を死に至らしめた恨みは消えたわけではない。
 重忠を賞賛する声を聞く度に、怨恨が蘇り、悶えるような怒りを懸命に抑えてきたことも事実であった。
「義村どの。わしは昔の話を蒸し返すのが目的ではないぞ。今、必要なのは御家人たちの結束なのじゃ。いざという時には、相模のみならず武蔵の兵たちも鎌倉殿の手足とせねばならぬのだ。それゆえに武蔵の者たちにはこの時政に対して二心を抱くべからずとの誓いをさせたのじゃ」
時政が言う鎌倉殿のために御家人の結束をとは飽くまでも建前で、本心は北条家の勢力拡大であることは義村自身も策謀家肌であるだけに重々承知している。しかし、時政の野心を利用すれば積年の恨みを晴らすことも可能なのである。
「なるべく速やかなるがよろしいかと」
義村も次第に乗って来た。
「まあ、そう焦ることもないが、この話は時期が来るまでは義時には知らせぬ方が良い」
義村も義時が重忠と親しいことを知っているので、
「承知しました」
その返事のきっぱりとした感じに時政は手応えを感じた。

辞去しようとする義村とともに門の近くまで来た時政は外出先から戻って来た牧に会うなり、
「そなたと同じような志の者が一人増えたぞ」
理由もなく重忠の悪口を言う妻を時政はうっとおしく思っていたが、今度はそれを利用し、義村の背中を押そうとしている。
牧は喜々とした表情を義村に向けると、
「あの者の話が出ると、本当に気分が悪くなります」
義村が長年、心の奥底に縛りつけていたいた怨念は、今や解き放たれた。 (続く)

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畠山重忠266(作:菊池道人)

 いささか春めいた日差しが菅谷館の厩に差し込む。
 齢三十になる三日月がけだるそうな眼差しをしている。馬の寿命は大体、二十数年であるから、長生きである。
今は牧に放たれても、若い馬たちからはぐれて、所在なさそうにしている。隻眼となった鬼栗毛など同世代の馬たちは皆、他界していた。
厩の中の方が居心地が良さそうなのである。
「随分と年月が過ぎたものだな」
老馬のたてがみをなでながら、重忠は話しかける。
三日月はそれに応じるかのように、ぶるると小さく身震いをしてみせた。
「三日月は達者かい」
 重忠の母が現れた。
 母の頭もすっかり白くなっていた。
「この馬が生まれた時のことを思い出しますね」
母も感慨深げな表情になる。
伊勢三郎が侵入してきた時、重忠は生まれたばかりの三日月を懸命にかばっていた。
「おまえ様に飼われた馬たちは本当に幸せなことですこと」
馬をこよなく愛する我が子のことを今更のように言う母。重忠も馬たちとの思い出が蘇ってきたが、最も痛恨なのは、由比ヶ浜での三浦一族との戦いで、和田義茂にその時に乗っていた山風を射られた怒りから、母方の祖父である三浦義明を攻め、自害に追い込んでしまったことであった。
「それがしが馬を思う余りに、あのようなことになり:」
改めて重忠は母に詫びるが、母は穏やかな表情である。法然の前に懺悔した時のことも思い出された。
母にもそしてその兄である三浦義澄にも重忠は許されてきたのである。
 それがどれだけ有り難いことであるのか:。
 涙が溢れそうになった。義澄はもういない。そして、残された三浦の一族、和田義盛や三浦義村のことに思いが及んだ時に、ふと不安がよぎった。
彼らも心底に自分を許してくれているのか。
多忙な日々には、なかなか思いを巡らすことはなかったが、今、しばし立ち止まったような時に心に浮かんでくる。
その不安を母に話してみたくなったが、その時、馬蹄の音が:。
 河越家を訪れていた弟の重清と重宗が帰ってきた。馬から下りた二人に重忠は、
「重時どののご様子は如何であったか」
「だいぶ良くなられた様です。重忠どのにはくれぐれもよろしくとのことでした」
重清が答えた。義経の舅であることが理由で誅殺された河越重頼の子、重時が風邪をこじらせたと聞いたので、弟二人が見舞いの使者となった。重頼の祖父である重隆と対立したことで、父重能の代にはしっくりいかなかった河越家との関係であるが、三浦との戦いでは、同族の誼で援軍に駆けつけてきてくれた。
そうした恩義もあって重忠は河越家には重頼の死後も気を遣っていた。
「二人とも大儀であったな」
弟たちをねぎらった後で、重忠は思い出したように、
「そろそろ農期だな。そなたたちは任地へ戻った方が良かろう」
重清は信濃に、重宗は陸奥にそれぞれ地頭となっている荘園がある。伊勢の領地を代官の真正に任せ切りにしたために災難を被った重忠は任地の統治に関しては人一倍気を遣うようになっていた。
そうした兄の意向を知っている弟たちも素直にそれに従おうとしたが、重宗が、
「ところで、我々が河越館に着いた時、確か北条時政どのが引き連れていた郎党らしき男が辞去するところでした」
「そうか」
重忠は平静に返事したきり、それ以上は応じなかったが、心中は波立ってきた。
 頼朝在世中は義経の妻の実家ということですっかり蚊帳の外のようであった河越一族を、北条がここに来て重要視しているのは明らかである。
すでに児玉党など武蔵の豪族たちの取り込みに力を入れてきていた北条ではあるが、重忠にはそれと対抗して、という気持ちがもともと薄い。しかし、重宗の言葉に引っかかるものもなくはないが:。
重宗も以前に重忠からたしなめられた手前、露骨な言い方は控えていたが、それでも気になって、雑談にことよせて話したのか。それ以上は触れなかったが:。
厩の中の三日月も耳をぴくりとさせていた。 (続く)

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畠山重忠265(作:菊池道人)

 正月早々、京の大岡時親から届いた書状を読み終えた時政は、ひとつ肩で息をしてみせる。
書状の内容は、後鳥羽上皇が鎌倉討伐を望んでいて、それを阻止するためには、上皇のお気に入りの朝雅を将軍とするしかないということ。もしそれを実現するならば、朝廷との妥協も余儀なくされること。実朝に忠実な御家人を極力排除すべきこと。そして、その対象者として畠山父子の具体名も明記されていた。 
 時政の野望は上皇によって背中を押された形になった。
 しかし、事は着実になおかつ手順良く進めなければならない。
どれか順序を違えても、目論みは水泡に帰してしまいかねない。
(先ずは武蔵から手をつけるか)
重忠の存在は、集権化を目指す時政にはすでに邪魔なものとなりつつあったが、その子の重保は実朝を侮辱されたということで朝雅と口論までしている。
 重忠は頼朝から我が子らを護るようにとの遺言を受けている。比企一族との戦いでは、頼朝の子である頼家を結果的に敵としてまで北条に味方したが、律儀な重忠のことである。せめて実朝だけはとの思いも持っているに相違ない。
実朝を廃するには、畠山父子は是が非でも滅ぼしてしまわなければならない、と思った。
しかし、そのための足かせになるのは我が子の義時である。
 重忠とは親しくしているがゆえに、反対するであろうことは火を見るよりも明らかである。
それに加えて、京の朝廷に対しても、親子間で温度差がある。
 時政は過去に二度、京に滞在している。
 一度目はまだ平家が覇権を握っていた頃に大番役としてである。
 その間に平家の家人であった牧宗親とも昵懇になり、その娘である牧を後妻に迎えたが、義時の方は三浦一族ら反平家側の豪族たちと交わりを結び、変革の志について語り合っていた。
 そして、その義時らの情熱と娘の政子の恋に引きずられる形で、時政は頼朝の挙兵に加わった。
 二度目の上洛は、平家滅亡後、頼朝の名代としてであり、後白河法皇に迫って、諸国の軍事・警察権を鎌倉に認めさせた。その一方で、時政は朝廷の官人たちとも友好的な関係を築くことも出来た。
 宗親の子である時親の人脈も含め、朝廷側とも協調しながら、鎌倉の権益を確保する自信もあるが、果たして、東国の豪族たちとつながりの深い義時がどこまで妥協するのか。
 何しろ、三浦など多くの豪族たちは東国に新たなる政をとの願いで頼朝を棟梁と仰いだ。もし朝雅が将軍となり、院の顔色をうかがうような政をすれば、それに不満を持つようになるのではないか。 そこまで考えると、そうたやすくは朝雅擁立には動き出せない。
そうしたことにも頭を巡らせ、躊躇の念すら鎌首をもたげだした時政が自室から廊下に出ると、牧が喜々とした表情で、
「朝雅どのから便りが来ました」
「そなたにもか」
時政にはやや意外な感もしたが、
「はい。とうとうあの武蔵の男を倒す決意を」
時政は余計なことを、というように顔をしかめると、
「大きな声を出すのではないぞ。そのことならわしも承知しておる」
 たしなめながらも時政は、この瞬間、後戻りはできない、と直感した。
「良いか。このことはさしあたっては義時や政子にも話してはならぬ。わしは必ず婿殿の言う通りにするゆえ、もらった書状は焼き捨てるのだぞ」
「はい」
牧も時政の決意を察して、素直に返事した。
 最終的には朝雅や時親の策を取り入れてのことだが、目の前にいる妻の我が儘に振り回されたことも要因であることは間違いない。
そう思うと、後ろめたさは感じなくもないが、
(これも上皇の魔手から鎌倉を護るためにはやむを得ぬ事なのだ)
公的な理由付けで正当化しようとしている時政であった。 (続く)

作:菊池道人 http://www5e.biglobe.ne.jp/~manabi/3.htm

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畠山重忠264(作:菊池道人)

 翌日も続けられた笠懸を終え、汗をぬぐいながら、後鳥羽上皇は、
「どうじゃ、京と鎌倉とその方にはどちらが良いかのう」
子供じみた二者択一の質問ではあるが、朝雅にはこれからも長く京に居て欲しいというようにもとれた。
そして、近頃、近臣たちが声を潜めてささやく話を思い出した。上皇が鎌倉討伐を考えているらしいということを:。
 朝雅はついにその話が来たな、と思い、さっと緊張したが、徐に、
「それがしはいずれ鎌倉に戻りたいと願っている次第であります」
「ほう」
上皇は回答の不本意さを隠すように、わざと微笑を浮かべてみせるが、朝雅は、
「しかしながら、もしそれがしが戻ることとなれば、鎌倉はこれまでとは違ったものとなるかと思います」
「それはどういうことじゃ」
上皇様の御意のままになる鎌倉でございます」
少し怪訝な表情をし、沈黙する上皇であるが、朝雅はもうひと押しとばかりに、
「それがしが鎌倉を上皇様の御意に叶うように致します」
「何という戯れを申すか。そなた一人で:」
「いえ、それがしが将軍ともなれば」
きっぱりとした口調の朝雅である。いつか上皇が冗談めかして言ったことを本気で言っている。
「朝雅、その方、実朝がいることをよもや忘れたわけではあるまいな」
「いえ、それがしを将軍にと望む者もおります。例えば、我が舅、北条時政など:」
上皇は大きくうなずいた。
 そして全てを察した。すでに修禅寺に幽閉された頼家が殺されている。北条の手の者によるとも聞いている。それくらいのことをやってのける時政ならば、実朝に対しても、とうことはあり得ぬことではない、と思った。 源氏の将軍家をさしおいて、鎌倉での実権を思いのままにしようとしている北条については上皇も十分認識している。
 それを利用しない手はない。
上皇は身を乗り出し、にんまりと笑みを浮かべながら、朝雅の肩に手をかけると、
「そなたを将軍にと望む者ばかりではない、ということをよもや忘れるではないぞ」
朝雅は上皇の瞳に輝きを感じた。

六角東洞院の邸宅に戻ると、滞在中の時親に上皇とのやりとりを知らせた。
「依然として実朝どのに忠義立てをする者も多いでしょうな」
時親の言葉に、その例として、真っ先に朝雅の頭に浮かんだのは、重保のことである。
酒席で実朝を批判したときの怒り様から、実朝擁護の急先鋒となることは間違いない。まして、その背後には父である重忠がいるとなれば:。
「時政どのはこのところ武蔵のことを気にされているような:」
時親の言葉は朝雅の意と合致する。
 朝雅は、
「早速、時政どのに書状をしたためよう。いや、あの御仁は腰の重いところがあるからな。それよりも、武蔵の件に関しては:」
「我が妹なれば」
時親がにんまりと笑みを浮かて応じると、朝雅も深々とうなずいた。 (続く)

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畠山重忠263(作:菊池道人)

第二十六章 我が心正しければ:。

 仁和寺を辞去した時親が夕刻、再度、六角東洞院の朝雅邸を訪ねてみると、屋敷の主は門前まで戻っていた。
「お疲れのところを申し訳ござらぬが」
憔悴したような感じのする朝雅に時親がやや遠慮がちな言葉を前置きするが、朝雅にとっては気の置けない客人である。
「いや、丁度よい頃であった」
朝雅も決して社交辞令ではないようである。
「それにしても寒い」
などの言葉を交わしながら、奥へと上がる。
 蝋燭を灯し、酒肴が揃ったところで、、
「いや、どうも困ったことになりそうだ」
朝雅はやや顔をしかめている。
「院の御心がどうも読めぬ」
「如何致したか」
朝雅は、
「ここだけの話であるが:。院は鎌倉へ兵を進めるご存念があるやもしれぬ」
声を潜めての朝雅の話に時親も驚きの色を浮かべる。
「いや、無論、それがしにははっきりとそう言う話をされたわけではない。本日もただひたすらに笠懸に励んでおられたのだが、どうもそれが含む所あってのことのようだ。近々、北面のみならず西面にも武士をとお考えになられているのも、鎌倉へとのことからと噂する方々もおられるのだ」
かつては平清盛や佐藤義清こと後の西行それに遠藤盛遠こと後の文覚らもいたことで知られる従来の北面の武士に加え、西面の武士の設置すなわち院の直属軍の強化も考えていることなどが近臣たちの間で不穏な憶測を呼んでいるということであった。
時親は、
「ううむ」
と唸り、少し沈黙した後で、
「しかし、朝雅どのは院にはたいそうお気に入られているではないか」
上皇は有事に備え、朝雅を味方に取り込もうとしているようにも思える。
「しからば、先手を打って貴殿が征夷大将軍となられるのは如何であろう。貴殿が鎌倉を上皇様の御意に叶うように致せば、何も好き好んで戦などなさることもなかろう。いや、実はこの話は時政どののたってのご存念で、こちらへ参上したのもそのためなのだが:」
「:」
余りにも大胆な時親の言い方に、さすがに、朝雅も狼狽したようである。
「本日、仁和寺にも赴いて、門跡どのにも挨拶申し上げた。先の謀反鎮圧の折りには、武運長久の祈祷をして頂いた礼も兼ねてなのだが、いずれまたご助力頂くようなこともあるかと」
一転して、時親は回りくどい言い方をしている。
が、朝雅はその意図するところに気づいていた。
実朝を呪殺してまで朝雅を将軍の位に就かせようという時政の恐ろしい執念に背筋が寒くなるようであったが、時親は、
「如何であろうか。これこそ朝廷と鎌倉との和合という大義に叶うものではござらぬか」
時親としては、院と親しい者を武家の棟梁とすることで、朝廷との戦を避け、鎌倉政権の安寧を図りたいようである。 時親はわざとゆったりとした口調で、
「時政どのにおかれても、色々と苦労をされてきたことであるしな。それを無にしてしまうわけにはいかぬからのう」
朝雅は謀略のおぞましさにおののきながらも権力の誘惑に惹かれていた。 (続く)

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畠山重忠262(作:菊池道人)

が、一度は背を向けた静遍は左近を振り返ると、
「この琵琶を持っていかれぬか」
「はい」
 子供のように素直に左近は答えた。
 「これも何かの縁」
と静遍が言いながら手渡す。
 左近は母の形見を抱きしめるように受け取った。
「ところで、今、拙僧を訪ねて来たのは大岡時親。実は平家が都落ちした後に貴殿の腹違いの妹は鎌倉へ下り、北条どのに仕えるようになったが、その世話をした牧宗親の子息です。妹御の消息など聞けるやもしれぬが」
「いえ、それには:」
「そうか。今更、詮無いことでもありますからな。では、これにて:」
静遍は再び、背を向けた。
 が、抱えた琵琶の重さは血のつながりという縁がさほどには軽くはない、ということに気づかせた。
「もし:」
左近は静遍の背中に声をかける。

父が平家の家人であった関係上、時親は頼盛の遺族とのつながりを保っていた。
「お久しうござる」
先ずは頼盛の子である静遍に丁重に挨拶する。
 静遍は
「平賀どののお屋敷には行かれたか」
「生憎お留守でございました。笠懸の御指南に院参されておられるとか」
そう答えながら上目使いの瞳が油断なく動く時親に、部屋の片隅に座している左近は抜け目なさを感じ取っている。
「時親どの、こちらは以前にご貴殿のお父上が世話した秀子という雑仕女の腹違いの兄じゃ。左近どのという」
「おお、これは」
時親は目を大きくする。
左近も挨拶した後で、
「妹は息災にござりますか」
時親は笑顔を見せながら、
「つつがなく暮らしておる。北条の奥方にもえらく気に入られてのう」
時親はそれ以上は触れずに、話相手を静遍に戻す。
「先だっての平家残党追討の折りには、色々とお世話になり」
伊勢での平家の反乱に際しては、仁和寺では調伏の祈祷が行われている。
「拙僧などは何も致さずに」
「いや、これも御仏のご加護と時政どのも感謝されておりましたので、座主どのにも御挨拶申し上げなければと参上致した次第でござる」
 淀みなく話す時親である。左近はこれ以上の長居は無用と、
「それでは、これにて」
「左近とやら。もし妹御に会いたければ、鎌倉にこの時親を訪ねるがよい」
「かたじけない」
左近は一礼して、退出した。
 その後で時親は、
「今後も色々とお力添え頂かねばなりませぬし」
「また、逆賊調伏の件で」
静遍はやや緊張した面持ちになる。時親は静遍の表情から、いきなり話の核心に触れるのは憚りがある、と判断し、
「いえ、それのみならず、一度、門跡どののご尊顔を:」
尚、この元久元年(1204)十二月の時点では、仁和寺の門跡は後白河法皇の皇子でもある道法法親王である。 (続く)


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