畠山重忠283(作:菊池道人)
すっかりお手の物である。識之助は築地にひらりと上ると、名越邸内に音もたてずに忍び込んだ。
頃は閏七月十八日の宵。蟋蟀や鈴虫は驚いて鳴き声を止めはしたものの、それ以外は誰にも気づかれることはなかった。
母屋から灯が漏れる。
音もなく忍び寄った識之助の視界に男と女が二人ずつ。
上座には北条時政、牧夫妻。その左脇に大岡時親、そして下座で北条夫妻に相対しているのはかつて識之助が思いを寄せていた秀子である。
前栽の陰に隠れた識之助は固唾を飲んで耳を澄ます。
「なまじ武者など使えば、義朝どのを討った長田忠致のように名が残り、面倒なことになるからのう」
そう言いながら時政は傍らの時親に目配せをしてみせた。
時親は声を低め、秀子に向かって、
「そなたがやったなどと信じる者はまずいない。しかも刃ではなく火を使うのじゃ」
「火ですか」
驚いたような秀子である。
時親は深くうなずいた後で、
「明日、実朝どのはこちらに参られ、宵には湯浴みをされる手筈になっている。そなたは湯殿の裏手に積んである薪に火をかけるのだ。もちろん、不慮の事としておく。事が済めば、直ぐに火を消せるように手配しておく」
一瞬、秀子の顔がひきつる。
時政は、
「事成った暁にはそなたを地頭に取り立てようと思うのじゃ。ほとぼりが冷めた頃にはなるが:」
この時代、女性が地頭になることは珍しくはない。例えば、結城朝光の母のことで、下野国寒河郡阿志土郷が任地である。
牧も、
「そなたもこの私ももとは平家の方人。それが世に出るようになるのよ。こんな目出度いことはないでしょ」
庶民の娘が地頭にまで、という話は毒を覆う蜜のような味がする。
「今まであなたは使われの身。私も随分、あなたに辛く当たったりもしたけど、今度はあなたが人を使う身となれるのよ」
牧が言葉を継ぐ度に、蜜の甘さは増し、その下に隠された毒の恐ろしさが薄れていった。
秀子はついに震える声ながらも、
「承知つかまつりました。仰せの通りに致します」
深々と頭を下げた。
前栽の陰の識之助は戦慄を懸命にこらえていた。
一度は惚れた女が恐るべき罪業を犯そうとしているのだ。しかし、今は見つからぬようにこの場を去らなければならない。
四人が部屋を去るのを待って、足を忍ばせながら、築地を乗り越え外に出た。
左近は識之助に二日程遅れて、鎌倉に着くことになっている。
予定の日の昼頃、鶴岡八幡宮の鳥居前で待ち合わせである。
順調ならばこの翌日のことだ。
実朝暗殺はその宵に実行されることになっている。
それを食い止めるための時は限られていた。
翌日、日輪が真上に来る頃になっても、鳥居前には左近が来ない。
彼が来るであろう方角とは反対側から、従者が曳く馬に跨った実朝が来た。
まだあどけなさの残るその顔には心なしか不安げな色も感じられていた。(続く)
作:菊池道人 http://www5e.biglobe.ne.jp/~manabi/3.htm
本作はオリーブニュース http://www.olivenews.net/v3/ にも掲載しております。
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